僕は数年前に、表舞台でピアノを弾くことを辞めました。
理由は二つです。
一つ目の理由は、「得意ではないから」
二つ目の理由は、「これから鍛えるべき筋肉はそこじゃないと判断したから」
僕がこだわっていることはたった一つで「面白く生きたい」ということ。
それ以外は、毎日同じ食事でもいいし、毎日同じ服装でも全然構いません。
ただ、この「面白く生きたい」という人生の目的だけは決して変えたくなくて、その邪魔をされることも好きじゃありません。
そして、その目的を果たし続けようと考えたときに、万が一自分が活動できなくなっても、活動を止めないでいてくれる「作品」や「チーム」を作った方がいいと舵を切ったんです。
表現者でいる間は、全て自分の体に委ねられているわけで、自分が止まれば、全ての活動が止まってしまいます。
だから僕は表舞台でピアノを弾くことを辞めました。
ただ、ここからが今日の本題なのですが、今日の話を聞いて「表舞台でピアノを弾く人」の否定と感じましたか?
僕にはその意思は1ミリも無いのですが、どういうわけかそう解釈されてしまうことが何回かあったんです。
今日の話はあくまで「僕が、僕自身の目的を果たすためにこの選択をしている」というだけで、僕と別の生き方をしている人を否定しようという意思は全くありません。
この話は「意見」の話であって「人格」の話では無いということです。
僕が望む世界は「あ、君はそういう生き方を選択したんだね。じゃあまた今度会った時はお互いに情報共有をしよう」なのですが、どういうわけかそれが中々叶わない。
違う意見を「そういう意見もある」とか「面白い」と解釈できないと、色々と視野が狭くなってしまうと思うので、この辺りの話に自覚がある方は少し意識してみてください。
Aを肯定している人は、別にBを否定しているわけでは無いよという話です。
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